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新紙幣はいつから?

新一万円札の顔「渋沢栄一」とは?

2021/4/23

新紙幣はいつから?新一万円札の顔「渋沢栄一」とは?

2024年に20年ぶりに刷新されることになった、新紙幣。
新しいお札では、千円札に「北里柴三郎」、五千円札に「津田梅子」、一万円札に「渋沢栄一」が描かれます。

千円札、五千円札は2004年に一新されましたが、一万円札は40年ぶりの新デザインとなります。

ここでは、「お札を新しくするのはなぜ?」「新紙幣はいつから?」「40年ぶりに一万円札の顔となる渋沢栄一とはどのような人物なのか?」
そんな疑問を一つひとつ見ていきます。

目次

1.お札を新しくするのはなぜ?
2.新紙幣はいつから使われるの?
3.渋沢栄一とは?
  3-1. 渋沢栄一の軌跡
  3-2. 渋沢栄一の功績
4.渋沢栄一と地方銀行の関係
5.まとめ

1.お札を新しくするのはなぜ?

財務省によると、偽造抵抗力強化等を目的に、概ね20年毎に紙幣のデザインを改刷してきたとのことです。
今回の新紙幣では、偽造抵抗力強化策として下記の最新技術が施されるといわれています。

●高精細すき入れ模様(透かし)
光に透かすと模様が浮かぶ「すかし」に、印刷でも再現が難しい極めて細かい模様が入る予定です。

●最先端技術を使ったホログラム
五千円札、一万円には印刷、世界初の見る角度によって肖像の3D画像の向きが変わって見える最先端のホログラムを採用し、千円札にはパッチタイプのホログラムが新たに導入される予定です。

また、これだけでなく、ユニバーサルデザイン(券種間の識別性向上等)の下記等の様式も取り入れられます。

●指の感触により識別できるマークの形状変更及び券種毎の配置変更

●額面数字の大型化

●「ホログラム」及び「すき入れ」位置を券種毎に変更

なお、新紙幣が発行されても、今使っている紙幣は引き続き使用することができます。

2.新紙幣はいつから使われるの?

2019年4月9日、政府は2024年の上半期(4~9月)に、一万円札・五千円札・千円札のデザインを新しくした「新紙幣」を発行することを発表しました。
紙幣が一新されるのは2004年以来のことです。

前回一新された2004年では、千円札は「夏目漱石」から「野口英世」に。
五千円札は「新渡戸稲造」から「樋口一葉」に。
しかし、一万円札は1984年から40年間ずっと、「福沢諭吉」から変わっていませんでした。

今回の新紙幣で「野口英世」から変わり、千円札の顔となる「北里柴三郎」といえば、医療の発展に貢献し、破傷風菌の純粋培養技術や「血清療法」を開発した人。
「樋口一葉」から変わり、五千円札の顔となる「津田梅子」は日本の女子教育に大きな役割を果たした人で、女子英学塾(現 津田塾大学)の設立が有名ですね。

では、「福沢諭吉」から変わり、一万円札の顔となる「渋沢栄一」とは、どのような人物なのでしょうか。

3.渋沢栄一とは?

渋沢栄一は数多くの企業の設立に関わり、「日本の資本主義の父」と呼ばれています。
約500の企業を育て、約600の社会公共事業に関わった人物で、幕末から昭和までを駆け抜け、「士魂商才」を説いた、時代の先駆者です。

また、大河ドラマ「青天を衝け」の主人公としても、話題ですね。

3-1.渋沢栄一の軌跡

渋沢栄一は、1840年に埼玉県深谷市血洗島(ちあらいじま)で、農民として生まれました。
当時の日本は鎖国状態にありましたが、1853年ペリー来航により、幕府が開国。
多くの外国人が、日本に入ってきました。
青年期、江戸に遊学中、尊王攘夷思想の影響を受け、倒幕計画を立てましたが、直前で中断し、京都へ向かったといわれています。

そして、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)に仕える平岡円四郎に出会い、一橋家に士官しました。
その後、一橋慶喜は徳川幕府第15代将軍に、渋沢栄一は弟の徳川昭武に随行し、万博博覧会への参加、留学するため、フランスのパリへ渡航しました。

渋沢栄一は西欧の文明に驚き、日本の近代化についても必要性を感じました。
このとき、感銘を受けたとされているのは下記です。

  • 汽車などの交通機関
  • 新聞の存在
  • 五色のガス灯に飾られた都市の夜景
  • 上下水道、電信装置の整備
  • すべての病人が治療を受けられる清潔な病院
  • 西欧の金融・紙幣制度
  • 紙幣を集めて営利事業を営む「銀行」の存在

渋沢栄一が欧州へ渡っている頃、日本では、徳川慶喜が政権を天皇に返上する「大政奉還」が行われていました。
それに伴い、渡航後約1年半で1868年に徳川昭武と共に帰国。
徳川慶喜は静岡で謹慎生活を送っていたため、栄一は会いに行き、そのまま静岡藩で働くことに。

静岡藩の勘定組頭となった渋沢栄一はフランスで学んだ知識を生かし、静岡藩の資本を元本にして、商社と銀行を合わせた「商法会所」を立ち上げました。

商法会所は、藩が政府から借りた「石高拝借金」と「商人の出資」を資本金として、お茶・養蚕・米などの生産に必要なものを買う資金の貸し付けを行ったり、肥料や製品を買い取るためにも使いました。
誰でも出資することができ、出資金額は自由。そして商法会所に利益が出れば、出資金額に応じて配当金が出されます。
「商法会所」は日本で初めての株式会社といわれています。

静岡で商業をさらに盛んにしていこうとしていく中、その手腕を買われ、商法会所を設立した年、渋沢栄一は大隈重信に説得され、民部大蔵両省で働くことに。
鉄道の敷設、富岡製糸場(官営模範工場)の設置、郵便制度の創設、度量衡の統一、租税改革、新貨幣制度の設置、国立銀行条例など、矢継ぎ早にさまざまな仕事を手掛けていきます。
近代社会の形成に勤しむ中、官ではなく民として日本の経済発展に寄与することを決意し、1873年には政府を辞職し、民間実業家へとなります。

3-2.渋沢栄一の功績

民間実業家となった渋沢栄一は、様々な企業を立ち上げ、日本経済の発展に取り組みました。
最初に着手したのが「第一国立銀行(現:みずほ銀行)」の設立です。

「国立銀行」と聞くと国が経営する銀行のイメージですが、アメリカの「national bank」の直訳であり、国が設立し経営した銀行ではありません。

その他にも、国家や社会のための「公益」を追求する考えから、より良い社会の実現のために、様々な業種の会社を設立しました。

【渋沢栄一が設立に関与した企業一例】

  • 東京海上保険(現:東京海上日動)
  • 東京瓦斯(現:東京ガス)
  • 大阪紡績(現:東洋紡)
  • 東京株式取引所(現:東京証券取引所)
  • 王子製紙(現:王子ホールディングス)
  • 東京ホテル(現:帝国ホテル)
  • 日本鉄道会社(現:東日本旅客鉄道)
  • 共同運輸会社(現:日本郵船)
  • 東京電灯会社(現:東京電力ホールディングス)など

国づくりには教育の発展も重要だと考え、「一橋大学」「東京経済大学」などの学校設立にも力を注ぎました。
パリ留学などで女性が活躍している様子を見かけていたこともあり、女子教育の必要性も感じ「日本女子大学」「東京女学館」を設立。

さらには、経済の発展だけでは格差はなくならないと感じ、生活困窮者、障がい者、孤児といった人たちのため、社会公共事業にも力を入れるようになりました。
そこで、「東京養育院」「東京慈恵会」「日本赤十字社」の設立に貢献してきます。

4.渋沢栄一と地方銀行の関係

渋沢栄一は様々な分野に功績を残してきていますが、地方銀行の設立についても真に地方開発の要となるよう、その土地にあった銀行とすべきとの信念を持ち、「第一国立銀行」を通じて指導・支援を行ったという、繋がりがあります。
面会や書簡による指導だけでなく、国立銀行への出向者の受け入れや国立銀行の行員の派遣、さらに自身の財産の出資など、各地の地方銀行の声に応えるべく対応していたといわれています。

銀行制度が地方でも行われていたからこそ、村落に住む方も銀行に預金することができ、また、銀行は集まった資金を使って、地域産業の発展へとつなげました。

まとめ

渋沢栄一は、自分だけが儲けることをせず、全て、社会のため・公益のために考え、行動を起こしました。

私利私欲で、誰かが利益を独占することを嫌い、多くの経済活動、社会活動にかかわり、日本の社会全体の利益を重視し、発展していくことを目指した人物だといわれています。

公益のために力を尽くし、100年近い時を経て新一万円札の顔となる「渋沢栄一」。コロナ禍で時代が大きく変わりつつある中、よりよい社会のためにどう行動するべきか、考えていきたいですね。

(提供元:アイクリエイト四国アライアンス

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